篠原榮太の仕事を偲ぶ

日本タイポグラフィ協会のOB会員、篠原榮太氏が2023年9月14日に逝去されました。この記事は、typographics t 308号(2024年9月)に掲載された特集「篠原榮太からの贈り物」の拡大版です。typographics t誌の紙面では、篠原榮太氏の奥様である篠原めぐみ様へのインタビューが掲載され、篠原家での私生活が詳細に語られています。スペースに限りがあるため、このオンライン記事には篠原榮太氏と関わりの深かった業界のプロから彼の仕事についての洞察を得ることを目的としています。多摩美術大学時代からの教え子である三石博様、TBS時代で一緒に仕事をしていた山口恵理子様、そして書体制作世界の鳥海修様です。下記にある短いインタビューが、篠原榮太氏の仕事について少しでも多くの方に知っていただけることを願っております。
取材:ブラザトン・ダンカン


引っ張り上げた先生

回答:三石 博氏

1)篠原さんとの出会いについて教えていただけますか?

私が先生に初めてお会いしたのは、多摩美術大学グラフィックデザイン専攻の文字デザインの授業でした。私が22歳、先生は40歳代後半で最もエネルギッシュな頃であったと思います。

2)三石さまから見た、篠原さん書道の幅の広さの秘密は何でしたと思いますか?

先生は青年時代、日本画の勉強をされていました。その時代にデッサンと絵画の基礎をしっかり学んでおられます。絵画、イラストはもちろん、先生のカリグラフィ作品、書体デザインなども、このデッサンの基礎が根底にあってこそだと思うのです。先生も「カリグラフィはデッサン力だね」と言われておりました。先生の広範囲にわたる仕事は、入口が絵画であったことから、当然のことであると言えます。

3)この世代は分からないことなので教えていただきたいです。篠原さんはどのような先生でしたか?重要な授業・学びの例があれば教えていただけたらと思います。

先生は、出来の悪い私に、初めて「優」をくださった先生です。私を引っ張り上げ、青い尻を叩き「おまえさんにも、良いところはあるよ」と見守り励まし続けてくださった恩師です。いつだったか、先生が私の父に「一緒の仲間だから」と言われたのを傍で聞き、胸が熱くなったのを覚えています。先生は、教師であると同時に、先輩のような、それも兄貴のような先輩でありました。今でも私が仕事を続けられているのは、そんな先生の眼差しがあったからなのだと思います。私と同じく、先生に救われた学生は多かったのではないか。だから、卒業してから半世紀近くが経とうとしていても皆が先生の元に集うのです。そして今は、こころの中に生き続けています。

4)篠原さんの作品群には名作溢れるほどあります。三石さまが思う、篠原さんのもっとも代表作を教えていただけますか?

先生の作品で、ひとつ挙げよと問われれば、1980年代に手がけられた15点から成る「カリグラフィ作品」シリーズを推したいと思います。雪、雷、雲など自然をテーマとした漢字一文字と、その文字に因むグラフィックを絡めて表現した作品で、カリグラフィをグラフィックアートの域に押し上げたシリーズです。そのCG的表現は今なお新鮮で、先生の瑞々しい感性を見ることができます。

三石 博 (みついし ひろし)

1954年長野県に生まれる。1979年多摩美術大学デザイン学科グラフィックデザイン専攻卒業。81年同大学院美術研究科終了。アートディレクター、パッケージデザイナーとして「神の河」(薩摩酒造)や「ヌーベル月桂冠」(月桂冠)など、企業の基幹商品を手掛け、」酒のオリジナルボトルからのデザイン開発は20点を超える。また、ボトルデザインとの関わりから、ガラスの素材に惹かれて、1994年、自宅にキルンワークの工房をつくり、美津石紘詩の作家名でガラス造形作家としての活動をスタートさせる。翌年には現代ガラスの国際コンペティション、国際ガラス展・95金沢で銀賞受賞。現在は工房「SGW」を主催し、クラフトウイスキーのデザイン開発、カラフェ(クラフト)の開発を行う傍ら、現代ガラスの制作、発表を行なっている。作品掲載TASCHEN JAPANESE GRAPHICS NOW!他。著書に「ボトルは語る」(六耀社)「十人のパッケージデザイナー」(六耀社・共著)がある。


即断即決仕事の素早かった上司

回答:山口恵理子氏

1)篠原さんとの出会いについて教えていただけますか?

東京デザイナー学院でのレタリング(タイポグラフィ)の授業です。颯爽と現れテキパキとお手本を見せてくださるいつも楽しみな授業でした。卒業の年に職員室で私の名前を出してくださっていると聞き、就職の相談で連絡を取ったところ「いつから来れる?」と即座のお返事で卒業を待たずに勤務させていただくことになりました。

2)篠原さんはどのような上司でしたか?


即断即決仕事の素早く、できて当たり前という仕事ぶりで常に緊張感がありました。厳しい面もありながらニコニコ笑っている印象も強いです。ネガティブな事は決して仰らなかったし余計なエネルギーは全て仕事に注いでいたように思います。私が入った当時、事務所(デザイン室)はTBSのテレビ局舎の4階にありました。別室もあり20人弱いたように思います。仕事は番組タイトルの他にテロップ、フリップ、ノベルティーのデザインなどがあり、生放送にも対応していて忙しい職場でしたが、雰囲気は悪くなく仕事終わりの飲み会や社員旅行などもあり仲良くしていたと思います。

3)篠原さんがテレビの仕事は何年関わっていたとご存知ですか?その長く続けるとの理由は?

テレビの仕事を長く続けてこられたのは描くこと書くことが「好き」だったに尽きるのではないでしょうか。

4)山口さまが思う、篠原さんのもっとも代表作を教えていただけますか?
たくさんありすぎて困っています。

「輝く日本レコード大賞」
「渡る世間は鬼ばかり」
「3年B組金八先生」

長く続いていて認知度も高い番組。
「金曜日の妻たちへ」
「男女7人夏物語」

話題になった番組でスタイリッシュな書体。他にも「関ヶ原」や「永田町」などの重厚な作品も数多あります。

山口恵理子 (やまぐち えりこ)


後進を育ていた人

回答:鳥海修

1)篠原さんとの出会いについて教えていただけますか?鳥海さんと篠原さんがどのような関係ありましたか?続けた理由などついても教えてください。

先生と始めてお会いしたのは、1973年、私が多摩美術大学グラフィックデザイン科3年で、「文字デザイン」という科目を受講したときです。その時の私は、文字デザインに強い興味を持っていたわけではなく、むしろさほどの興味もなく、ただ簡単に単位がとれそうだと思ったのです。40名程が受講したと記憶していますが、おそらく私と同じような安易な考えで受講した学生が多くいたと思います。
初めての授業の時に、先生は自己紹介をかねて黒板にチョークを使い大きな文字で「篠原榮太」と、明朝体でレタリングしました。学生の中に書体に対する意識が高い人もいて、その人はその速さ、正確さに驚いていましたが、私はその時の先生が描いたの文字の記憶があいまいです。
先生の顔は俳優のジンハックマンに似ていて、それにいつもニコニコしていて学生にとっては親しみやすい存在でした。
授業では、ロゴデザインをしたり、書体デザイン、カリグラフィを教わりましたが、私が衝撃を受けたのは、文字を生業にしている方たちのところに先生が学生たちを引率して見学に連れて行って下さったことでした。寄席文字の橘右近さん、写植文字の三宅康文さん、毎日新聞社など。その中でも私の将来を決定づけたのは毎日新聞社の見学でした。当時の新聞は活版印刷でした。私は当時、活版印刷という言葉を知っていたかどうか曖昧です。おそらく写植という言葉も知らなかったと思います。私は工場内の小さな部屋の隅で一人の若い社員が、文字を書いているのを見つけました。片仮名一文字だけを8センチ位の大きさでレタリングしていたのです。とてもきれいなレタリングでした。そのとき私はその文字が何をするものなのか理解できずに、「それは何をするものですか」と問うと、その方は怪訝そうに「活字の元だよ」と答えました。
私はその時にはじめて、新聞の小さな活字が人の手によって作られている。それは新聞ばかりでなく、今まで読んで影響を受けた本の活字もじつは一文字一文字が人の手によって作られていることに、思いが及んだときカルチャーショックと、言いようのない感動に襲われました。そしてさらに工場内を案内してくださった小塚昌彦さんが「日本人にとって、文字は水であり米である」と諭しました。その瞬間に私は書体制作の道に進もうと思いました。
ですから、今の私があるのは先生の授業が発端でした。
大学生の時に温泉好きの仲間が集まって「温泉友の会」を結成しました。会長はエディトリアルデザインを受け持っていた伊藤幸作先生。とても酒好きの先生で、ある日、大学に向かうスクールバスの中で、篠原先生が伊藤先生とばったり会ったそうです。「いきなり今日一杯どう?」と伊藤先生に言われたことを、半ばあきれつつもうれしそうに私たち学生に話してくれました。伊藤先生と「温泉友の会」で実際に温泉に行ったのは、卒業旅行を兼ねて行った湯西川温泉の一回だけ。卒業してしばらくすると伊藤先生が亡くなったと聞きました。
有名無実の温泉友の会でしたが、伊藤先生が亡くなったあと、メンバーと相談して篠原先生を名誉会長として迎えました。その後、温泉友の会では、不定期に温泉や、先生の別荘、ご自宅などにお邪魔するなど、ながいお付き合いをさせていただきました。

2)篠原さんは日本のタイポグラフィ世界にどのように影響与えていると思いますか?

一番は、後進を育てるということではなかったでしょうか。
先生から文字デザインを教わり、それを生業としている方は私の周りにかなりいるし、タイポグラフィ協会会長なども長く勤めて、タイポグラフィ全般を支えたものと理解しています。
仕事では、カリグラフィ(筆書き文字)を最大の武器にして、テレビドラマや芝居のタイトルなどで、背筋が伸び、スマートで明るい書風は、篠原流とも言える独自のものではないでしょうか。

3)篠原さんが開発した書体(篠、新隷)は、プロ書体メーカー鳥海さんから見るとどの印象でしょうか?日本の書体の中、その位置付けについてざっくばらんに教えていただけますか。

フォントというカテゴリー内の位置づけとして、先生の書体はそれほど大きな影響は与えていないと思います。それは汎用的な書体を作っていないからという理由が考えられます。しかし先生は自分しか書けない独自の個性に拘ったように思います。

中でも「篠」と「まるたくん」は、先生の代表作だと思います。
「篠」は篠原流とも言える行楷書。オーソドックスに見えるが、書家の書とも筆耕屋のスタイルとも違う先生独自の書体は、品がよくスマートなスタイル。
「まるたくん」は、佐野繁次郎の描き文字を彷彿させる都会的な大人の文字。先生の器用さが際立つ。
「新隷書体」。
「篠」と同じように先生独自の隷書。四角の中に収まっていて使い易いと思う。

それにしても、先生は本当にさまざまな仕事を見事にこなしました。それがすごい!

鳥海修 (とりのうみ おさむ)

1955年山形県生まれ。多摩美術大学GD科卒業。1979年株式会社写研入社。1989年に有限会社字游工房(http://www.jiyu-kobo.co.jp/)を鈴木勉、片田啓一の3名で設立。現在、同社代表取締役であり書体設計士。ヒラギノシリーズ、こぶりなゴシックなどを委託制作。自社ブランドとして游書体ライブラリーの游明朝体、游ゴシック体など、ベーシック書体を中心に100書体以上の書体開発に携わる。著書に『文字を作る仕事』(晶文社刊、日本エッセイスト・クラブ賞受賞)がある。

記事作成者
BrothertonDuncan
BrothertonDuncanの顔写真
オーストラリア出身で、2001年より日本に在住し、GRAPHIC DESIGNER+THINKER+WRITERとして活動しています。デザイン以外にも英訳の仕事を受ける。大阪医科薬科大学と京都芸術大学でデザイン専門英語、奈良芸術短期大学で編集デザインを担当。2011年に入会、現在は西部研究会委員会の担当理事。クラフトビール好き。最近新しいチェーンソー購入。普段、母国語より関西弁しゃべっている。